「私を信じて」「あなたを信じている」という言葉は、麗しい言葉だと思う人は多いだろう。逆に「他人を信じられない」という人がいれば、それは欠陥がある人だと思うのではないだろうか。しかし、これは本当にそうなのだろうか?
という私も、以前は「信じる」ことはとても美しいものだと思っていた。そして、それができない人は心に欠陥がある人だと思っていた。
以前は、すぐに感情的にものを言ったり、「この人、いい人そうだから」という曖昧な基準で判断をしていた。
そんなときは、つねに疲弊していた。理由のひとつは、感情の起伏に振り回されていたからだと思う。誰もが経験したことがあるだろうが、感情が高ぶったり、人に怒りをぶつけたりするときはものすごくエネルギーを使う。
そして、もうひとつの理由は、自分が求めているほどのことを人は返してくれず、なんとなく“裏切られた”という感情を持つことが多かったからだと思う。
そんな基準でずっと生きていたのだが、20代後半ごろ、感情をコントロールすることや、信じることではなく、しっかりと物ごとを観察することが大事だということを学んだ。最初はよく分からなかった。人を信じないなんて欠陥人間だ!と思っていた。
しかしこれは、人を邪険にし、疑ってかかれということではなく、物ごとをしっかりと観察し、本質を見抜く力をつけるという意味での「信じるな」ということだった。
要は、観察力(眼)、見抜く力を鍛えれば、「信じる」ことは必要なくなる。実体をみて判断をするだけだからだ。
よく考えてみると、「信じる」という言葉は、曖昧な、不確かなもの、後ろめたさを誤魔化すために使われているのだ。よく分からない商材を売っている人のセリフ、恋人との会話など、「信じる」という言葉が使われるシーンを想像してみてほしい。何か誤魔化したいことがあるようなシーンが出てこないだろうか?
頭ではなんとなく理解できても行動で表せるかはまた別の話である。人を邪険にすることではないのに、邪険にしてしまうというような失敗を何度も何度も繰り返して、ようやく分かってきた。そうすると、相手から思っていたような反応がなくとも、裏切られたというような感情が沸かなくなった。それもそうだ。そもそも信じていないのだから。
あくまで、自分が観察して判断した結果でしかないから、原因がすべて自分にあるという風に考えられるようになったのである。
そうなると、まだまだ自分は未熟だな、もっと観察して見抜く力をつけようという発想になるのである。観察力や見抜く力を鍛えるには、自分自身の状態をよい状態にする必要がある。整ってこそ研ぎ澄まされる感覚だからだ。また、自分に原因があると捉えるから、誰かに不満や怒りをぶつけることもなくなる。
このように、自然と自分自身を高めていくことに繋がり、ストレスも軽減されるのである。
私たちは「信じる」という美徳にずっと騙されてきている。「実体をよく観察して見抜く」―この力を身につけると随分とラクになる。また「人を信じられない」という人は、それは決して欠点ではないのである。
ここまで散々「信じない」ということをいってきたが、一番大事なことがある。
それは、自分自身を信じるということである。言い方を変えれば、信じられるのは自分自身だけである。